大家さんがお風呂に入っている音が聞こえる


こんにちは。挨拶です。「五〇度の真夏が巡る」脚本担当のjitsuzonです。

僕が住んでいる吉祥寺の木造アパートは築30年くらい。冬は隙間風のせいで暖房を全力にしても極寒だ。おまけに壁も薄い。隣の男子大学生が爪弾くベースの生音が聞こえる。まあ家賃が安いし駅からも遠くないしと言い訳しつつ、4年ほど住み続けている。さすがにもうすぐ引っ越したいところだけど、案の定お金が無い。準備もめんどくさい。こうやってずるずると住み続けていくだろうことは僕にだってわかる。引っ越しをしない言い訳は波動拳コマンドくらい身体に染み込んでいて、次々と繰り出すのは造作もない。今から書くこともその1つだ。

僕の住んでいるアパートは、大家さんの一軒家に隣接している。同じ敷地内にある、と言った方がわかりやすいだろうか。特に壁で仕切られてもいない。2階建て10戸のアパートの横に、昭和に建てられた庭付き一戸建てかくあるべし、みたいなわかりやすい2階建て瓦屋根の住宅があり、大家さん一家はそこに住んでいる。僕をはじめアパートの住人は、毎月の家賃を直接大家さんに渡すことになっている。2017年にもなって本当にめんどうなことだ。銀行引き落としか振り込みという概念が抜け落ちてるのかな。仕方ないので毎月大家さんちのインターホンを鳴らし、現金の入った封筒と1年分の領収証(手帳のようなもの)をもっていく。いつもは老夫婦のどちらかが出るのだけど、あるとき、若い女性がインターホンに出たことがあった。

「あれ?いまいつもと違う声がしたな、何か若いような…」と考えている間に玄関のドアが開いた。

「どうぞー」

勘違いではなかった。確かにいつものおばあさんの声ではない。入ってみると、自分よりいくつか年上であろう落ち着いた女性が立っていた。

「こんにちは、いつもお世話になっています。お家賃ですよね?」

丁寧に、スムーズに、それでいて事務的でない暖かな声と所作だった。今だから思うけど、まさに親戚のお姉さんという感じだった。老夫婦の娘さんなのかな。孫というほど若い年齢じゃないだろうし。と、あれこれ考えて少し不自然な間を作ってしまった。

「あ、はい、そうです。今月の家賃と領収証こちらです」

お姉さんは領収証をめくって家賃を確認したあとに、封筒から取り出した現金を数えた。決して頻繁に手入れしてますという様子ではないけど、細く長い指がとても綺麗だった。髪は肩の下まである長い黒髪で、ブラウスに膝丈スカート。悪い意味で地味、良い意味で清楚な服装だった。はっきりいって僕の好みである。スリッパがリラックマという可愛らしいところを含めて、優勝。国連から保護されてほしい。

「では、少々お待ちくださいね」

領収証にハンコを押すために家の奥に行ってしまった。僕は玄関で待つ。歳は32くらいかな…結婚指輪はたしかしてなかったよな…とか考えだしたあたりで「うわ!きもちわる!見過ぎだし!」と急に恥ずかしくなった。ハァ〜〜〜と思って横を向いたらちょっと寝ぐせが残った僕が鏡に映っていた。慌てて手ぐしをしたけど、なかなかに頑固で、思春期ばりに反抗する。どうかお姉さんが戻ってくる前には、と髪の数本を抜く勢いで手ぐしを強化していたら、

「お待たせしました〜。ん?大丈夫ですか?」

思いっきり目撃されてしまった。

「あ、いえ、寝ぐせが、ちょっと…ハハ…」

めっっっっちゃ恥ずかしい。なにこれ?他人の家で鏡見て髪型なおすナルシストだと思われてない?思われてないにしても寝ぐせってダサくない?さっきガン見してたのとかバレてたらどうしよう?????

「ふふ、かわいくハネてますね」

聖母。恥ずかしいのは変わらないけどめっちゃ聖母。救い。今プライドと虚栄の間で失われそうになっていた20代後半男性の心が救われました本当にありがとうございます。
その後は領収証を受け取り、恥ずかしさと喜びと興奮をごちゃまぜにしながら玄関を出た。振り返ったときにはもう扉がしまっていて少し寂しかったけれど、興奮の方が強かったのでずっと脳内で「マジか…」と言っていた。寝ぐせはいっそうハネた気がする。

それからもお姉さんとは家賃を渡しにいくたびに何度か会っていた。おじいさんやおばあさんが出る時は心底がっかりした。だいたい3分の1の確率でお姉さんに会える。つまり3ヶ月に一度だけ。織姫と彦星ほどではないけど、少ない。少ない!それでもお姉さんに会えることが嬉しかった。毎回1つは会話をしようと、自分に任務を課していた。「今日は寝ぐせないですね」とか話しかけてくれたりもしたし、お姉さんが老夫婦の娘さんであること、最近実家に戻ってきたということ、焼き鳥が好きなことがわかった。といってもそれだけで名前すら知らないんだけど。
ちょっと前には家からとても近いお蕎麦屋さんで会ったことがある。有休をとっていた平日の昼間に寝間着同然の格好で行ったらお姉さんがいた。本当に驚いた。完全に気を抜いてた。今までコンビニでも会ったことなかったのに。お姉さんは僕に気づき軽く会釈をした。僕は奥の一方的にお姉さんを見れる位置に座った。もし見られる側だったら緊張してご飯なんて食べられない。お姉さんは夏の暑い日だったのにカレーそばを食べていて、なんか良いなぁと思った。お店の人と談笑してたので古くからここに通っているんだと思う。お姉さんは会計の後、また1つ僕に会釈をしてお店を出ていった。

僕はそのときからいっそうお姉さんのことを考えるようになったし、蕎麦屋に行く頻度も増えた。でもほとんど会うことはなかった。同じ敷地内に2つほど壁を隔てた向こうにお姉さんがいる。でも会いに行く理由がない。偶然でもなかなか会うことができない。その状況が歯がゆかった。

ある初夏の夜に、僕は窓を開けてインターネットをしていた。いつも何かしら音楽を流すんだけど、その日は珍しく何も音がない状態だった。すると、近くからする音に気付いた。

「バシャーーン」

「バシャーン、ザブーン」

「バシャーン、カポン」

風呂だった。完全に風呂。風呂の音。風呂音(フロート)。一瞬で聴覚が最大となり、身体より先に心が勃起した。今までなんで気づかなかったんだ。窓を開けた目の前にある大家さんの家、なんと風呂場に面していたのだ。建築士ありがとう。そもそも建物に人が住むという歴史、あなたに感謝したい。

「オーケー、慌てるな。ゆっくりでいい。ゆっくりだ」

僕はそう(心で)呟きながら、”目視”できるかをカーテンを恐る恐る開けて確認した。しかし、さすがに全く見えなかった。建築士の自制心あっぱれ。あなたがスケベに身を委ね職を失うことは今後も無いでしょう。
だが、私にはまだ残されている。”音”がある。この「バシャーン」、この「チャポーン」、この「シャーーー」。全てがお姉さんの音であり、存在である。尊い。私はお湯になりたい。すぐお湯に転生できるならいま人生を終えてもいい。音は波であり振動、僕は余すこと無く感じるため余計なものを全部外し全裸となっていた。全裸でジッと網戸の向こうの風呂場を見つめている。ときおり目を閉じて音に集中する。彼女が浸かっているであろうお湯の温度を想像する。床の色…シャンプーの匂い……排水口に流れていく髪……………

「お父さん、タオル置いときますからね」

「ああ、ありがと」

老夫婦の会話が聞こえた。僕はもちろんその言葉を全身(裸)で受け止めた。受け止めた……………
パンツや服を着て、友達からおみやげでもらったジンをショットで飲み、一番強い日常系アニメの再生を始めた。

※この話はフィクションです。お姉さんはいません。